尊い涙 2/2

 

 

母の経営しているスナックは家から歩いて十五分ほどの駅前にあり、
中はカウンターのみのこぢんまりとした店だ。
三十代の女の人を雇い、二人で店を賄っていた。

沙智はあの店が好きではない。
店内にいると、黒く淀んだ空間に身を置いているような気がしてきて
息苦しくなった。薄暗い照明がまた、余計にそう感じさせていた。

店の前に着くと沙智は大きく深呼吸をして、透明な仮面をかぶった。
ドアを開けると「カララン」と鈴が鳴り、母が沙智を出迎えた。

「ありがとう、助かったわ。こちら、大変お世話になっている永山さん。挨拶して」


そこには小太りで、顔も汗だか油だかでテカテカに光っている、
六十歳くらいの男がいた。
金のネックレスに金の指輪。歯まで金色に光らせている。
「金だけが魅力の男。金の光りに女は寄って来ても、
顔の光りは毛嫌いされる、かわいそうな男」と、沙智は思った。

そんな思いとは裏腹に、沙智はいつも通り人に好まれる柔らかな表情で言った。

「はじめまして、娘の沙智です。母がいつもお世話になっています。
今後ともよろしくお願い致します」

「いやぁ、ママに似てべっぴんさんだねぇ。うちの娘とは大違いだ」
永山はブランデーの息をまき散らしながら、ガハガハと笑った。

「永山さん、明後日誕生日でいらっしゃるでしょ。
これ、大した物じゃないけどプレゼント。受け取ってくださる?」

母が差し出した突然のプレゼントに、永山は大層喜んだ。
「いやぁ、嬉しいねぇ。僕はもうママのとりこだよ。
沙智ちゃん、こんなに気が利いて優しいママは、自慢のお母さんじゃないかい?」

沙智は「はい」と、即答した。

「そうだろうなぁ。うちもこんな優しいかみさんと、素直でかわいい娘がいれば、
家に帰るのも楽しいんだろうなぁ」
永山は「うんうん」と頷きながら、呟くように言った。

「沙智ちゃんはこれを届けるために、わざわざ来てくれたんだろ。
おじさんからのささやかなお礼だ。これで何か好きなものでも買いなさい」
永山は財布から一万円札を取り出し、沙智に渡した。

「いえ、そんな、受け取れません」
それは、遠慮などではなく拒否だった。
『かわいそうな男からお金を貰う、もっとかわいそうな女にはなりたくない』

「いいや、いいんだよ。おじさんはこんなことぐらいしかできないんだ。
取っておいてくれないか」

永山は沙智の手に掴ませようとした。

「あの、でも……」

「沙智、折角のご好意なんだから頂いておきなさい」

母のその言葉で沙智は仕方なく受け取った。永山は嬉しそうに笑っている。
沙智も同じように、嬉しそうに笑った。

「それでは、失礼します」

沙智は店を出た。そしてその瞬間、
表情を大きく歪めながら手に持っていたお金を握りつぶし、その場へ捨てた。

「男に媚を売って金を儲ける女と、得体の知れぬ男の子供。私は汚い……」



家に戻る途中、公園で五歳くらいの少年が、一人ブランコに乗っているのが見えた。
沙智は思わず少年の元に行き、隣のブランコに乗った。

「一人なの?」

「うん」

それきり二人は何も話さなかった。ただ黙ってブランコに乗っていた。
十分ほど経った時、少年が突然駆け出し、つまずいた拍子に転んだ。
沙智はとっさにブランコを降りて少年の元へ走った。
すると、沙智よりも早く一人の女性が少年の前に現われた。

「ママー」

少年はしゃがんだ女の人の胸に飛び込んだ。

「痛くない、痛くない。たっちゃんは強い子だもん」

今にも泣きそうだった少年の顔が、徐々にたくましい顔に変わっていった。

「ア・ノ・コ・ハ・ヒ・ト・リ・ジ・ャ・ナ・イ」

沙智の身体に悪寒のような震えが襲った。

「怖い……」

とても嫌な予感がした。




家で夕飯を食べている時、浅岡の携帯が鳴った。相手は画面を見なくても分かる。
「行って来る」と妻に残し、浅岡は玄関へ向かいながら通話ボタンを押した。

「もしもし」

「・・・・・・」

「どうした?」

「・・・・・・」

荒い口調になる自分を抑えて、今度は静かに尋ねた。
「今どこだ?」

「……公…園」
消えそうな声が聞こえてきた。

「家の近くか?」

「……たぶん」

「すぐ行くから待ってろ。俺が行くまで、頑張って耐えろ。いいな」

電話を切って家を出ると、エレベーターを使わず階段で一気に五階から降りた。
車に乗ると、車内に置いてある地図を見て、
既に覚えていた沙智の家から一番近い公園を探し出した。
浅岡は沙智の隣町に住んでいて、車を飛ばせば十分近くで沙智の元に着く。
しかし、今はその十分がとても長く感じられた。




公園の側へ着くと沙智らしき姿が見えたので、
浅岡は車を止め、急いで沙智の元へ走った。
沙智はぼんやりと斜め上を向きながらベンチに座っていたが、
その目には何も映ってはいない様子が伺えた。
そして無表情ながらも、何かを必死で耐えている。

右手のナイフが左手へ伸びるのが見えたとき、
浅岡は「もう少しだ。耐えろ」と、願いをこめて大声で叫んだ。

「ピクッ」と沙智が反応し、一瞬手の動きが止まった。
その数秒で浅岡は沙智の元に辿り着くことができた。
ナイフを手から放し、沙智をベンチから抱き上げ強く抱きしめた。


その時、沙智の目に幼い少女の幻影がぼんやりと映り始めた。
少女は男の子に髪を引っ張られたと、
保育園に迎えに来た母親らしき女性に泣きついている。
するとその女性は少女を優しく包み込んだ。

「大丈夫よ、ママがいるからね」。
泣いていた少女は泣き止み、母親の顔を見上げた。
「サッちゃん、さようなら」。保母さんが声をかける。
「せんせい、さようなら」。少女は笑顔で振り向いた。
その拍子に少女の顔が沙智の目に映る。少女は……沙智本人だった。

「あっ!」
沙智の頬を一筋の涙が伝う。それは沙智の感情が戻った証だった。



「些細なことなんだ。ただお前は、人の温もりを忘れてただけなんだよ」
ベンチに座ると、浅岡は前を見ながら独り言のように話し出した。

「俺はな、昔、煙草を自分の体に押し付けてたんだ。熱くも痛くもなくて、
俺は人間じゃないのかもしれないと、何度も何度も煙草を腹に当てた。
しかし何度やっても何も感じない。そんな自分が腹立たしく、とても悲しかったよ」
浅岡が着ていたTシャツをめくると、そこには無数の火傷跡があった。

「そんな俺を救ってくれたのは、かみさんだ。
俺は当時、腹の傷跡をクラスの奴らに自分から見せてたよ。
こんな痛みぐらい屁とも思わない強い男なんだって。

あいつは高三の時のクラスメイトで、たまたま帰りが同じになったことがあったんだ。
時間が遅かったから同じ学校の奴は俺たちしかいなくて、
俺がつい煙草を吸い始めると、あいつは腹の傷のことを聞いてきたんだ。

『どうしてあんな事するの? 痛いの我慢したって、
全然男らしいことにはならないわよ』って。

俺は『痛くないからできるんだよ。今やってやろうか?』って言った。
そしたらあいつの口から『可哀相な人』って言葉が返ってきたんだ。

その言葉に俺、カーッとなって、思わず殴りそうになったんだよ。
でもあいつ、逃げるどころか、俺のことをいきなり抱きしめたんだ。

俺ビックリして煙草を落としちまったんだけど、
それが丁度、足首の所に落ちて靴下が焼けたんだ。
それがさぁ、すごく熱くて痛くて、思わず泣いちまったんだよなぁ。

あいつに『何であの時俺のこと抱きしめたんだ?』って聞いても、
『何となく』って答えるだけ。
ただ、俺がいつも見えない敵と戦ってるように見えたとは言ってたな。
俺はその時から、痛みを感じないなんてことは無くなったんだ。
俺は普通の、皆と同じ人間だと思えるようにもなった。


だからさ、水崎も支えてくれる人間を見つけろ。
人の温もりは持続性があまりないんだよ。
いつも見守って包んでくれる、そういう人間が必要なんだ。
お前はいい女だし、すぐに見つかるさ。

それまでは俺が、何かあった時には駆けつける。けど、俺はあくまで繋ぎの人間だ。
俺は水崎にとっての偽物だからな。
本当にお前を大切に想ってくれる奴と出会えた時、心から笑えるようになるさ」


沙智は自分が寂しがっていたことに初めて気が付いた。
寂しいという感情を忘れていた訳ではなく、自ら取り除いてしまったのかもしれない。
人生の光明が少し見えた気がした。

「幸せになりたい」と、初めて思ったのだ。
沙智にはもう、ナイフは必要なかった。

 


                                         ≪終わり≫

 

 

* この小説を書いた背景 ―― 余談

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