尊い涙 1/2
「キャハハハ」
笑い声が、コーヒーショップ店内に響き渡る。
「沙智はホント、よく笑うよね」
「そんなことないよ。千佳ちゃんが面白すぎなの」
沙智は新宿に遊びに来ていた。店内は、夏休みで平日を持て余している
若い人たちばかりだというのに、沙智の笑い声は、
甲高い特有の声質のせいもあってよく響いた。
「ねぇ、沙智も一緒に海行こうよ」
「私はいい。理由は言わなくても分かるでしょ」
「肌、焼きたくないから」
千佳は沙智の甲高い声を真似しながら言った。
「こんなに暑いっていうのに、今日も長袖着てるんだもん。誘った私がバカだね。
そのプロ? 違うか。プロ前意識にはまったく感心するよ。
高校卒業したら、オーディション受けるんでしょ?」
「うん。私の理想のモデル像は、やっぱり透き通るような白い肌だからね」
沙智は今年、夏になっても半袖にならなかった。夜になると肌を出すのかといえば
「蚊に刺されたら困る」という理由で、やはり素肌は出さなかった。
最初は皆、首をかしげたが「モデルになりたい」という夢に向かって、
そこまで気を使っていることに最後は感心し、尊敬していた。
「あたしは卒業してから、どうしよっかなぁ? 特にやりたいこともないし、
大学行く頭もないし。夢に向かって突き進んでる沙智が輝いて見えるよ。
うわっ、眩しい!!」
光をさえぎるように目の前に手をかざして、千佳が冗談っぽく言った。
「キャハハハハ」
沙智は2DKのマンションに、母と二人で暮らしている。
母はスナックを経営していて、帰ってくるのはいつも朝方だった。
そのため、普段軽く顔を合わせることはあっても、
会話をすることは殆どなかった。
父親とは会ったこともなければ、写真も見たことはない。
会いたいとも思わなければ、自分に父親はいないと思っている。
その男は遺伝子情報の半分の持ち主として、
この世に存在しているだけだとしか思えなかった。
その日の夜、沙智はいつものように自分の部屋で一人過ごしていた。
築五年の鉄筋コンクリートマンションは、防音設備が整っていて
外界の音は全く聞こえない。
テレビの音だけが部屋に流れている。そんな中、沙智はつぶやいた。
「あぁ、良かった……」
沙智の右手には、ナイフが握られていた。
翌日の昼頃、担任の浅岡から電話がきて、これから学校へ来るよう言われた。
沙智はクリーニングに出しておいた制服をクローゼットから出し学校へ向かった。
夏休みの校舎はガランとしていて、普段と雰囲気が違う。
部活動が盛んな訳ではないので、人もまばらにしか見かけない。
職員室へ入ると、授業がある訳でもないのに、
普段通りの白衣姿で浅岡は待っていた。
三十五歳にしては若く見え、目鼻立ちも整っている浅岡は、
既婚者だが女子生徒に人気がある。よく言えば自由主義、
悪く言えば勝手気ままな校風の都立高校には珍しい、熱血タイプの教師だ。
生徒に対してえばった態度を取ることもなく、
「俺とお前は教師と生徒の関係だが、人間としては同等だ」が、
浅岡の口癖だった。しかし、それが鼻につくと反発する生徒も中にはいた。
沙智は浅岡がどうということではなく、もともと教師という人間が好きではない。
だから表面的には談笑するなど仲良さげにしていたが、決して心は開かなかった。
「水崎、就職先はどこでもいいって、それはちょっとないだろう。
希望する職種は何も無いのか?」
「はい。不景気だし、就職できればどこでもいいんです」
「本来なら俺は進学を勧めるところだ。
そこそこのレベルの四大に合格できるはずだからな。
しかし、学費の問題があって就職の道を選んだことに反対しなかった。
だからこそ、就職先をもっと慎重に選ぶべきだろう」
「実は先生……、言うのちょっと照れ臭いけど、私モデルになることが夢なんです。
だから、就職先はこだわりません」
「夢ねぇ……。そうきたか」
浅岡が何故そんなことを言ったのか、沙智には全く見当がつかなかったが、
その空気に少し不快を覚えて、
「そんなの無理だってバカにした? ヒドイなぁ。先生と違ってまだ未来が無限に開けてる
若者なんだから、そんなこと言わないで下さいよ」と、茶化すように言った。
しかし浅岡は表情を緩めるどころか、更に真顔で、
「就職先はどこでもいいっていうのは、本音だろうな。
でも、夢があるからっていう理由は嘘なんじゃないか?
なぁ水崎、今ここには俺とお前しかいない。せっかくの機会だ。
お互い本音で話そうじゃないか」
『親切の押し売りなんて迷惑! ウザいよ。この偽善者!!』
沙智は苛立たしかったが、そんな表情は微塵も見せず、ただただ不思議そうな顔で
「どういうことですか?」
すると浅岡は、沙智の目を真っすぐ見た。
「その夢は嘘だし、それどころか本当は夢を抱く余裕さえ無い。違うか?
他の連中は騙せても、俺はそんな嘘に騙されないぞ」
『分かった風なこと言わないでよ』 沙智の仮面が一瞬崩れた。
「そうだよ、その鋭い眼だ。それがお前の本音だ。
一体本当の水崎沙智は、何を考えてる」
沙智は再び平然とした表情で、
「先生のおっしゃっている意味が私には分かりません。
本当の私って何のことですか?」
「それじゃぁ、質問を変えよう。何故、半袖のシャツを着てこない」
「日に焼けたくないからです。私のモデルの理想像は白い肌だから」
「そうか。でも、そこまで徹底しているのに、足の日焼けは気にならないのか?
水崎のスカート、他の生徒に比べて短いよなぁ」
「それは……」
沙智には返す言葉が見つからなかった。
「長袖の理由は他にあるんだろ?」
沙智は思わず浅岡から目を逸らした。
『しまった!』
すぐに顔を戻したが、浅岡の真っすぐな視線が痛くて、
沙智の目は泳ぎ、再び目を逸らした。
その場から立ち去らずに居続けることが、沙智の最後の抵抗だった。
浅岡は席を立つと、沙智の肩を軽く叩いた。
「そのガードは自分を守る鎧じゃない。逆に自分を追い詰めるだけだ」
諭すような、それでいて苦痛そうな声だった。
遠ざかる足音を聞きながら、沙智の感情の波は激しく揺れていた。
長袖しか着ない、本当の理由が気付かれているのかもしれないと不安になり、
そして心を見透かされているようで悔しかった。
「私だって騙されない。たかが興味本位で近づいてくる奴を、信用なんかしない」
家に帰ると沙智は何もせず、部屋の壁に寄りかかった状態で、
ただ時間を過ごしていた。夕方になり、少し肌寒くなったので、
エアコンの温度を上げようとリモコンに手を伸ばした。
その拍子にふと、母親が虐待し乳児を死亡させたというニュースが目に入った。
幼児虐待は年々増加していて深刻な問題だとか、
相談窓口や対応機関が少ないので早急な改善が必要だ、などという、
代わり映えの無いキャスターのコメントが流れていた。
それから間もなく、「イ・ラ・ナ・イ・コ」
幻聴が沙智を突然襲い始めた。沙智の表情が恐怖心で歪んでいく。
それと並行してキャスターの声が次第に遠くなっていった。
どんどん闇へと引きずり込まれ、とうとう何も聞こえなくなり、沙智の表情が消えた。
すると沙智は鞄からナイフを取り出し、右手に掴んだ。
そして自分の左腕を、何のためらいもなくスパッと切った。
沙智は時々、感情を失う。それは大概、自分の部屋に一人でいる時か、
夜一人で外を歩いている時だった。笑うことも泣くことも、怒ることも、
とにかく全ての感情が突然分からなくなってしまう。そして表情も消えていく。
それは「無」というより「虚」に近い。
そうなると、音の認識さえも出来なくなった。今もテレビは確かについている。
しかし音が聞こえない。始めは聞こえていた筈なのに、
だんだん聞こえなくなっていった。
そうすると、沙智は自分が生きているのかさえ分からなくなり、
この世に存在していることを確かめずにはいられなくなる。
そしてその方法が、自分の腕をナイフで切ることだった。
流れる血が温かいこと、心臓の鼓動が体内で響き出すこと、
そして何より痛みを感じることで、
沙智は自分が生きていることを実感できた。そしてやっと落ち着くことができる。
「生きてたんだ。良かった……」
半年前までは、ただ漠然と不安を感じることはあっても、感情を失うことなどなかった。
しかし今では、何の前触れもなく突然やってきて沙智を襲った。
そして自分を取り戻すために同じことを繰り返す。
もはや常にナイフが手元に無いと、不安を感じるようになっていた。
二日後、浅岡から手紙が届いた。
『水崎沙智 様
もし電話でまた学校へ来るように言っても、お前は絶対に来ないだろう。
だから、手紙を書く。絶対に読めよ。
何故、俺があんなことを言ったか知りたくないか?
水崎は昔の俺に似ている。
このクラスの担任になってすぐ、
自分の分身のような奴がいるなと水崎を見て思ったよ。
仮面をかぶったその表情を見てだ。お前は確かによく笑う。
しかし、ふと寂しい表情を一瞬していること、自分自身で気付いているか?
俺は昔、下らない色んなことに腹を立てていたが、
そんな時一瞬寂しい表情が垣間見えていたそうだ。
水崎が長袖しか着てこないことで、俺はとても嫌な予感がしている。
この間の態度を見て、それは確信に近い。だから早く助けてやりたい。
「助けてやりたい」なんて言葉は、俺のエゴだな。
でも、水崎は誰かに助けて欲しいと思っていないか?
俺は昔願っていた。
でもその相手が分からずにいたんだ。
俺はお前を救える。断言しよう。だから、何かあったらすぐに電話しろ。
何も言わなくてもいい。とりあえず、電話しろ。いいな。
090―1234― ○○○○
(この携帯の番号は、かみさんしか知らない貴重な番号なんだぞ)』
真っ白な便箋に手書きされたその手紙を読み終えた時、沙智の心は揺れた。
浅岡という人間を信じるという訳ではなく、ただ「お前を救える」
その言葉が心にズシンと響いた。
沙智は確かに願っていた。「この暗闇から脱出したい」と。
そして「誰か助けて」と心の中で叫んでいた。
ある日の夕方、母から電話がかかってきた。
店にとって非常に大事なお客の一人が、
来店する予定を明日から今日に突然変更したらしい。
前もって買っておいた、その客への誕生日プレゼントが家に置いてあるので、
それを店まで届けて欲しいということだった。
「私の誕生日は知らないくせに……」
母親の部屋に入るのは一年振りだ。
ドレッサーには客から貰ったであろう口紅や香水が、所狭しと並んでいた。
しかしその他にはベッドしかない、相変わらず殺風景な部屋だった。
八年前、この家に移り住むまで、沙智は母のことが好きだった。
十畳一間の木造アパートで暮らしていた時だ。
一緒に寝ることは出来なくても、二人は同じ布団で寝ていた。
布団についた母の甘い香水の香りが大好きで、
その香りは母を感じさせ、一人でも寂しくなかった。
しかし、この家に住むようになってから、母との距離は急速に開いて、
それと比例して母への愛情も薄れていった。
一人の女として客観的に見るようになった今では、
あれほど好きだった母の甘い香水の香りも逆に嫌いになった。
明らかに変わったのは十二歳のあの日。
母親宛てに送られてきた、あの手紙を読んでからだ。
その日も沙智はいつものように、学校から戻るとポストを覗いた。
中には差出人のない手紙が一通入っていて、
その手紙は何故だか妙な胸騒ぎを覚えさせた。
沙智はその日、母が帰宅した午前二時になっても眠れずにいた。
すると、リビングテーブルに置いておいた手紙を母が読み、
イライラしている様子がドア越しに感じられた。
グラスや氷の音が聞こえ始めたので、お酒を飲み始めたのだろうと思った。
沙智の胸騒ぎは一層深まった。
沙智がその手紙を読んだのは翌日のことだ。
夕飯をリビングで食べていた時、二つに引き裂かれたその封筒を目にしたのだ。
沙智はためらうことなく、手紙をゴミ箱から拾い読んだ。
『あれから十二年。俺にも多少の罪悪感はあり、お前の要求を素直に受けてきた。
しかしもう限界だ。俺は妻や子供が大事なんだ。
だから家庭を壊すようなことは止めて欲しい。
お前を愛していた訳でもないし、望んでできた子でもない。
会ったことも見たこともない娘に、愛情を抱ける筈もない。
家も店も与えてやったんだ。もう十分だろ。
二度と、子供を出しにして脅すような真似は止めてくれ。電話もかけてくるな』
沙智はその日の夜、母が帰ってくるとその手紙を持ってリビングへ行った。
「まだ起きてたの? 早く寝なさい」
母はいつも以上に酔っている様子で、キツイ口調で言い放った。
「……ねぇお母さん。この手紙を書いた人、もしかして私のお父さん?」
手紙を母の前に出して沙智は尋ねた。すると母の表情は険しくなり、
「捨てたもの読んでんじゃないの」
「ごめんなさい」
「父親に会いたい? 死んだと思っていた父親が生きてたら嬉しい?
でもねぇ、残念なことにあなたの父親は最低な男。
妻子がいることを隠して騙し続けた最低な男」
「でも、私のこと産んでくれたでしょ」
「妻子がいると気付いた時には、もう堕ろせなかったのよ。
それでも、お腹を痛めて産んだんだから可愛がろうと思ったし、始めは可愛かったわ。
でも産んだことの代償は想像以上に大きかった。昔気質の両親には罵倒され、
近所の人に知れたら外を歩けなくなると勘当され、やりたくもない夜の仕事も始めた。
五年経って、ようやく人を好きになることができて、その人と結婚するはずだったのに、
あなたが彼になつかないせいで、その話もなくなった……。
どうしてよ!彼はあんなに沙智を可愛がってくれてたじゃない。
育てるだけでも精一杯なのに、幸せまで奪わないで!!」
母は沙智を睨んだ。しかし数秒の沈黙の後、今度は荒げていた声を震わせながら、
「年々あなたはあの男に似てくる。顔を見るのが辛いのよ。……向こうへ行って」
沙智は走って部屋に戻り、床の上に小さく身をかがめて座った。
すぐには母の言葉を理解することが出来なかった。
父親は、沙智が産まれてすぐに死んだと聞かされていた。
それに「お父さんは沙智をとっても愛してくれていたのよ」と。
信じていた。何の疑いもなく信じていた。
幼稚園の頃、天国へ連れて行ってと何度も訴えたこともあった。
しかし沙智の脳裏にいくら振り払っても、次々に恐怖が浮かんでくる。
「望んでできた子じゃない……? 愛情を抱ける筈がない……?
私がお母さんの幸せを奪った……? 私の顔を見るのが辛い……?」
突然、誰かが耳元で囁いた。
「君は誰からも愛されていない、イ・ラ・ナ・イ・コ」
沙智の中の何かが壊れた。
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